仕事と機械化

現代では仕事は機械化との関係で以下の三つに分類できる。

  • 機械化するのが技術的に難しい仕事
  • 機械化可能だが規制などにより、機械化がなされていない仕事
  • 機械化するにはコストパフォーマンス的に割が合わない仕事

この3つについて順番に見ていく。

  • 機械化するのが技術的に難しい仕事

これは市場の性質によってさらに下の二つに分類できる。
i)「一人勝ち」可能な市場
ii)一人勝ち不可能な市場

i)「一人勝ち」可能な市場 : 音楽家、科学者、漫画家、アプリ製作者、

スーパースターが生まれるには市場が次の二つの条件を満たしている必要がある。
i)その市場におけるすべての顧客が、最良の生産者によって生み出される財・サービスを享受したがっている。
ii)そのような財・サービスは、最良の生産者がすべての顧客に低い費用で供給することを可能にする技術を用いて生産される。

いわゆる一万時間の訓練を要するOutliersの仕事で、ピアニストやサッカー選手、理論物理学者などがこれに該当する。
 はてな界隈では「ハッカーと画家」的仕事観と共に、こうした仕事を目指すことが支持されているが、ハッカーや画家は一つの時代に数百人いれば十分なわけで、いくらその過程が楽しくともそれを目指すことは合理的ではない。また、僕自身も含め、良く誤解されているのは、科学もまたWinner-take-allの仕事であるということで、ただ、科学の市場にはニッチが多いので、映画業界やファッション業界と比べるにまだ、現実的かもしれない。

ii)一人勝ち不可能な市場 : 医者、弁護士、官僚、SE、美容師
 これらの仕事では顧客の数だけ働く人が必要になるので、一人勝ちは不可能。正確な技術が要求される手術や、裁判での過去の判例との整合性のチェックなどは機械化されつつあるが、医療や司法の現場から人間が必要なくなることは当分ない。また、公務員の仕事の大半は、「機械化可能だが規制などにより、機械化がなされていない仕事」か「機械化するにはコストパフォーマンス的に割が合わない仕事」であるが、国家という複雑なシステムを運営するには一定数の人間の関与が不可欠である。どこの親も医者や弁護士、官僚になれとうるさく言うのには、それなりの理由がある。

  • 機械化可能だが規制などにより、機械化がなされていない仕事 : 介護、運輸、オフィス業務

介護業界などは本来機械化できるはずであるが、東南アジアから比較的安い人材が確保できること、国営の介護保険の存在により価格インセンティブがはたらかないこと、機械化に際し過剰な安全基準が要求されることなどから、機械化に至っていない。しかし、こうした現状は一時的な雇用創出を図る政府以外の誰にとっても不幸なわけで、急速な高齢化が世界の活力を奪い取ってしまう前に何らかの対応を取らなければならない。
 また、googleの全自動乗用車は既にテスト段階に入っており、各国政府の様々な規制さえパスできれば、近いうちに実用化されるはずで、そうなると運輸業界は実質的に消滅する。
 あるいは、経理や営業、顧客対応などのオフィス業務もアジア諸国アウトソーシングするなどして依然人力でこなされているが、新興国の賃金水準が向上するにつれ、機械化がなされるはずである。

  • 機械化するにはコストパフォーマンス的に割が合わない仕事 : 清掃、飲食店、IT土方

 学部生の時に大学の図書室の夜間司書のバイトをしていて、座って勉強しているだけで時給900円という非常に割の良いバイトだったのだけど、ある日暇つぶしに過去のQ&A集を見ていたら非常に気になるものがあって、「なんで、図書室に自動貸出機を導入しないのですか?」という質問に対し、「自動貸出機は一台200万円と大変高価なので、現在導入の予定はありません。」という返答が記してあった。毎平日に時給900円で5時間バイトを二人雇うと一年で約200万円の出費となるから、高いというのは名目であって、実際には苦学生に小遣いを配ろうという意図でもってあえて自動貸出機を導入せず、人力で貸し出し処理を続けているというのが本当のところであろう。そうすると、これは「機械化可能だが規制などにより、機械化がなされていない仕事」の例ということになるのだけど、「機械化するにはコストパフォーマンス的に割が合わない仕事」というのはイメージ的にはこんな感じ。クルーグマンはこれを以下のように皮肉っている。

「『知的』な仕事なんてコンピュータでも十分できる。人間にしかできない仕事ってのは、実は掃除とかメンテナンスとかの肉体的な雑用だ。」
クルーグマン教授の経済入門」あとがきより

 30代の平均年収の大幅な下降や、ワーキングプアの問題はこの視点から語られるべきで、さらに問題なのはこうした仕事を誰かに押し付けることで現代の豊かな生活は成り立っているということ。そう考えると、ベーシック・インカムなどはナンセンスで、これらの仕事に負の所得税をかけて、労働へのインセンティブを持たせなければならない。

 ただ、こうした仕事も結局すべての労働者に行き渡るほどあるわけではない。生活保護の受給者の増加がそれを如実に物語っている。

生活保護の受給者200万人超えとかいうニュースに関する雑感」
いろいろと不正受給だの問題を孕みつつも、生活保護の受給者が増加し続けている背景ってのは、雇用の受け皿になってきた産業が磨耗している部分があって、働き口がないのだから生活が維持できなくて生活保護を受けざるを得ないという同情すべき事態に陥るのは社会保障上仕方がないのかなあと。
 で、その減った働き口とやらを見てみると、建設や地場製造業など構造不況業種に加えて、地方自治体の新規雇用減だったり農林水産の限界化なんてのが地味に効いて、もっぱら地方の雇用が減ってる。でも、これって過去の産業推移を見ると、公共投資地方自治体などからの発注で食い繋いでいたり、農業なんかだと助成金補助金がずっと垂れ流されていて、その蛇口が閉まってきて雇用を維持できなくなって衰退しているという実情に気づく。
やまもといちろうブログ http://kirik.tea-nifty.com/diary/2011/03/200-9ec3.html


ともあれグローバリゼーションが一通り進行した今、再びオートメーションについて考えなければならないのは確かだ。

「ロング・グッドバイ」

英米現代文学はなるべく英語で読むようにしているのだけど、本作は長いし、なによりも訳が村上春樹なので翻訳版で読んだ。

読んでて引用したくなった部分はたくさんあったが、鉛筆で傍線を引きながらミステリを読むわけにもいかないので、35節の初めの部分のみ。

私の別の部分は、こんなところからさっさと立ち去り、二度と戻ってこない方がいいと囁いていた。しかしその部分から聞こえてくる声に、私が耳を傾けることはまずない。もしそんな声に耳を傾けていたなら、私は生まれた町のそのまま留まり、金物店に勤め、店主の娘と結婚し、五人の子持ちになり、日曜日の朝には子どもたちに新聞の漫画ページを読んでやっていたはずだ。(中略)そういう人生はお断りだ。私はうす汚くよこしまな大都市に生きる方を選ぶ。
ロング・グッドバイ

もうひとつ、村上春樹のあとがきも素晴らしい。中でもチャンドラーの描写は実に興味深く、単にチャンドラー評というのではなく、多くの人について、多くのことを物語っている気がする。

チャンドラーは頭の回転が速く、ユーモアのセンスもあり、本人がそうなろうと思えばきわめて魅力的な人間にもなれた。(中略)しかし、チャンドラーは多くの場合、神経質で気むずかしく、人との交際を避けた。プライドが高く、ちょっとした感情や言葉のすれ違いで傷つくことも多かった。そしてそういう人が往々にしてそうであるように、よく喧嘩腰になり、まわりの人を傷つけた。弁が立つだけに、刃物の切っ先も鋭い。特に酒が入っているときにその傾向が強くなった。あるときには酒に深く溺れ、あるときには酒をきっぱりと断った。妻を深く慈しみながらも、あるときには女遊びにのめり込んだ。直接会ったことがないからはっきりしたことはもちろん言えないのだが、個人的につきあうにはいささかむずかしい人だったかもしれない。

「7月4日に生まれて」

もし現世紀初頭の中東の諸戦争の目的が、アメリカの国威宣揚にあったとすれば、この目的は先に行われた多くの戦争や侵入などがなくても、立派に達成できたのである。もし目的が中東諸国の国威宣揚にあるとすれば、この目的は革命や独裁などなくても、やはり達することが出来たであろう。もし目的が思想の伝播であるならば、インターネットの方が兵卒などよりずっと立派にこの目的を果たしたに違いない。もし目的が文明の進歩であったならば、人間や国府の撲滅よりほかに、文明の普及にもっと適当な方法がある、こう仮定した方がはるかに自然らしく思われる。
戦争と平和」エピローグより、一部改変

 トムクルーズ出演作コンプリート作戦の一環で借りたのだけど、想像以上に重い映画だった。特にトム・クルーズウィレム・デフォーのケンカの場面は壮絶で、直視し難いレベルであった。

 全ての戦争映画のモチーフは「戦争と平和」で尽きているという仮説を検証するのはまた今度にして、戦争論の普遍性とベトナム移行の変移とについて書きたい。
 普遍性の方についてはおそらくあえて繰り返す必要はなく、資源や領土をめぐる利害の不一致から始まった戦争は自己目的化し、当事国は当初の争いの火種であった資源や領土を失うよりも大きな損失を被ってしまう。それは、ナポレオン戦争でもイラク戦争でも本質的には変わらない。
 ベトナム戦争以降の変移については、本映画の中でも良く描かれていて、軍は外の敵ばかりではなく内なる敵とも戦わなければならなくなったた。「戦争と平和」の中のロシア貴族は、熱心なフリーメーソンであったピエールでさえも、戦争それ自体に反対することはない。それに比べ、ベトナム戦争中のアメリカは反戦運動に吹き荒れ、戦争の英雄はその攻撃対象であった。
 反戦運動は人類の文明化の結実、ここ千年の間でいくつかの文明で同時多発的に進行してきた自由と平等の追求の現在形であり、それ自体を否定することは出来ない。特に世界中の人々が相互フォロワーとしてCirclesの一員として互いに個人的なつながりを持っている現代では、反戦運動は強力で、国家間の戦争などは不可能な状態にある。
 ただ、ひとつ考えざるを得ないのは、反戦運動参加者の無責任さ、環境保護活動家のそれと通呈する思考停止が蔓延しているように見える点である。実際に99%以上の確率で戦争は最適解ではないから、反戦活動家は思考停止に陥っていて良いし、小学生には毎年夏に「裸足のゲン」と「ほたるの墓」を見せて戦争へのトラウマを植え付けるべきだ。ただ、チェニジアやエジプトの例のように、時に武器を手にしなければならないときがあるのかもしれない。もっともそれは非常に慎重にやるべきだし、本当はもっと良い解決策があるはずなのだけれど。

新学期の始まりの国際比較

東大、秋入学への移行検討 国際化を加速 (日経)
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E1E2E2E7E58DE1E2E2E4E0E2E3E39F9FEAE2E2E2

上の記事等ではまるで9月始まりが世界標準であるかのように書かれているが、新学期の始まりは国際的に9月で統一されているわけではなくて国によって微妙に異なる。Wikipadiaに載っている範囲でまとめると、以下のようになる。

1月 : シンガポール/マレーシア, 南アフリカ
2月 : オーストラリア/ニュージーランド, ブラジル
3月 : 韓国
4月 : 日本
5月 : タイ
6月 : インド(大学は8月), フィリピン
8月 : ドイツ(大学は10月), パキスタン
9月 : アメリカ/カナダ, ヨーロッパ
http://en.wikipedia.org/wiki/Academic_term

一般的傾向としては、

  • 遅くても9月までには始まる。
  • 欧米諸国及び旧植民国では夏明け(南半球では1・2月)が新学期の始まり。
  • 東アジアでは、3-6月に新学期が始まる。

欧米と東アジアとの違いはおそらく小麦と稲の違いによるもので、小麦は越年草で秋に植えて翌春に収穫するのに対し、稲は春に植えて秋に収穫する。田植え/種まきを一年の始まりとするのは自然な考え方で、それが後の文化に引き継がれ、学校歴に採用されるようになったのだと推測できる。
もうひとつ、高校までと大学とで入学時期が異なる国も存在して、ドイツの場合は兵役と関係があるのかもしれないが、インドの例は日本で実行する際の参考になるのではないだろうか。

4-6月の映画 10/26

連れ立って飲みに行く友達もいないし、家にテレビもないので、休日の夜は専ら借りてきたDVDを観て過ごしてる。
特に四月からは毎週コンスタントに二本映画を見ていて、既に25本を超えたので、その中でこれはという10本について書きたい。以下基本的にネタバレ。



どこかで観たことがあるような気がして調べてみたら、"Free Agent Nation"で本作が引用されてた様。トム・クルーズは、金庫の潜入したり、宇宙人から逃げ回ったり、ミグを追撃したりしなくとも十分格好良いというのが分かる作品。"Free Agent Nation"との絡みでいうと、仕事に人生を賭けるのは、映画の中でトム・クルーズがするには良いのだけれど、現実にはズタボロのバッドエンドで終わる確率も少なくないわけで、映画になるようなことを凡庸な僕らが真似すべきでないとは思う。

まず、ミュンヒハウゼン症候群のクオリティが高すぎる。ズーイー・デシャネルが可愛いというのもあるのだけど、それ以上に曲が普通に聴けるレベルに達してるのが凄い。一歩間違えば怪しげな新興宗教の宣伝映画みたいになってしまいそうなストーリーが、コメディとしてうまくまとまってるのは、ジム・キャリーの存在感の強さゆえだろうか。ちなみに、本作を観て僕もイエスというように心掛けようと思ったのだけれど、そもそも他人から誘われたり何か提案を受けることがまるでないことに気付いた。どうやらもはや手遅れだった模様。とは言え、本作は早くも僕のもう一度観たいリストにラインナップされつつある良作。

  • オー・ブラザー

コーエン兄弟ジョージ・クルーニーのコメディ。映画自体もそこそこヒットしたのだけど、すごいのがサントラで、全米で700万枚以上売れてグラミー賞まで取っている。確かに、良質なミュージカル映画のような側面も強い。もう少しコーエン兄弟的なアクの強さがあっても良かったと思うが、もしかしたら僕が見逃していただけかも。

  • マッチポイント

本作は世間的には後期ウディ・アレンの代表作として認識されているらしい。確かに、「ハンナとその姉妹」での浮気男の心理描写や「世界中がアイラブユー」で描かれた現代の上流階級の表現などが上手く継承されていて、その意味では実にウディ・アレンらしい良い映画だと思う。ただ、何というかあまりに映画っぽすぎるというか、ラスト三十分は展開が急すぎて完全に置いていかれた感じだった。あと、本作はなぜかスカーレット・ヨハンソンの名で語られることが多いが、それよりも個人的にはエミリー・モーティマーの演技が素晴らしいと感じた。

  • 普通じゃない。

ダニー・ボイル監督のハリウッドデビュー作。ツタヤでは何食わぬ顔で恋愛映画の棚に収まっていたが、SFファンタジー的側面もあれば、クライムサスペンス的展開もあって、ダニー・ボイルがただのラブコメを撮るはずないだろうという期待を裏切らない作品になっている。確かにダニー・ボイルの作品の中では普通の部類入るかもしれないが、絵面がきれいだし、音楽も良いし、主演の二人のはまり役だし、決して普通な作品ではないと思う。

実話を元にしたブッチとサンダンスの逃亡記。ラストシーンの衝撃ゆえか、ブッチとサンダンスには逃げ切ってパタゴニアで牧場を始めたという義経伝説が存在する。法的に悪役と見なされている人々を主人公として映画を撮るのは多分難しくて、逃げ切っても道徳心が痛むし、それまで感情移入してきた格好良い主人公が捕まるのを見るのは堪え難い。その間を取ってストップモーションなんだろうなと思った。

タランティーノが、70-80年代のB級映画のオマージュとして制作した作品。必要以上にエログロが強調されているあたりB級映画っぽいのだけれど、ところどころ無駄にハイセンスだったり金がかかっている感じがあったりして面白い。特に素晴らしいのが緩急の付け方で、全盛期のMogwaiの音楽のような、あるいはミラン時代のカカのドリブルのような、静と動のはっきりした対比がなされてる。Amazonのレビューではタランティーノの最高傑作とまで評されていたけど、女の子たちの会話に「フランスではクウォーターパウンダーのことをなんて呼ぶか知ってるか?」みたいなキレはないし、アクションもユマ・サーマンみたいなえげつなさがないし、最高傑作というのはさすがに嘘だろう。

こういうメタ的な作品はどうも痛い感じがすることが多いのだけど、さすがチャーリー・カウフマンというか、すごく自然に観ることが出来た。内容も二つのストーリーが上手く絡み合ってて、自分と全く同じ容姿をした双子の兄弟と自分を比較して悩む作家と、自分とまるで正反対のように見える被告への取材から自分自身を見つめ直してしまう雑誌記者との対比が興味深い。ちなみに、本作に出てくるランの本は実在していて、まるで非現実的な映画の展開をうまく引き締めてる。

酒に溺れたニコラス・ケイジがハリウッドを出てラスベガスに行く話。ストーリーの大枠は「ロング・グッドバイ」のオマージュなのかもしれない。ではなぜ「Leaving Las Vegas」なのだろうと考えるに答えは一通りしかなくて、作中にそれに気付くとバッドエンドだと分かっているものをどこか希望を探しつつ仕舞いまで観てしまう映画になる。僕はほとんど酒が飲めないので、たまに禁酒法の可能性について考えてみるのだけど、その度に結局長期的な致死性のリスクがないので禁酒を正当化するのは難しいだろうなという結論に達する。本作のニコラス・ケイジ扮するアル中が出家した人間のような潔さを備えているのもまた問題をややこしくしている。

  • 300

この映画自体あまり面白いとは思わないが、9作だけだと見栄えが悪いし、なによりAmazonのレビューが面白かったので。

私はこの映画のおかげで苦難をなんとか乗り切った。
這うように劇場に行き、5回以上見た。

理屈とか、CGがどうとか俳優がどうとかではなく、本能にダイレクトに響いた映画だった。
病気が治った家族に見せたら、評価は散々だった。
しかし、誰がなんと言おうと、私は間違いなくこの映画に救われた。
兜つきのDVD−BOXは、今も私の枕元に置いている。
http://www.amazon.co.jp/300-%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89-%E7%89%B9%E5%88%A5%E7%89%88-2%E6%9E%9A%E7%B5%84-DVD/dp/B000U5HX3C/ref=sr_1_1?s=dvd&ie=UTF8&qid=1309361734&sr=1-1

僕が気付いてないだけで、実は凄い作品なのかもしれない。


逆にワースト3も挙げとく。

ミシェル・ゴンドリー監督でジャック・ブラック主演というので期待が高すぎたのかもしれない。パロディの元ネタが分からないというのと、分かってもパロディと呼べるものになっていないので面白くないというので、あんまり笑えない。ハリウッドを皮肉るなら、連ドラとかyoutubeとかのハリウッド以外の手段でやってほしい。

開始30分でバイクが壊れて、残りの一時間半を徒歩とヒッチハイクと筏で移動するのにモーターサイクル・ダイアリーズはないだろうというのが一点。もう一つは、チェ・ゲバラの描き方が浅いこと。残念ながら革命家を名乗る人物に出会ったことはないが、彼らはおそらくその敷衍する思想よりも崇高な何かを持っているはずで、それがなければ政府やマスメディアに逆らって大衆を煽動するなんて不可能なはずだ。しかし、本作で描かれているチェ・ゲバラは、南米を旅して資本主義のもたらした貧困の現状に気付いた学生という以上の何者かではなくて、深淵崇高な要素がない。


3つ目が思い浮かばないので、ワーストは二つだけ。あえて挙げるとすれば300かなあ。

世間での多数派と命題空間での多数派

僕が想定しているのは以下の二つの問いである。一つ目は、

  • 互いに無矛盾なファクトを寄せ集めただけの科学がなぜかくも強力なのか

ということ。これらは、無矛盾なだけであって、互いに強めあうことはない。もう一つは、

  • 科学的に間違った前提に基づく市民のマジョリティな意見は尊重されるべきか

という問い。ハイエクの意味において官僚は十分に馬鹿であり、衆愚的なポピュリズムは寡頭政に対して優位性をもつ。しかし、科学それ自体が対象となる場合は例外を構成するのではないか。

これに対し、世間での多数派と命題空間での多数派という二つの概念を用いて、解答を試みようと思う。まず世間での多数派とはいわゆるマジョリティであり、一人一票の原則による投票の結果、最も多くの人々に指示された命題、またはその命題を指示した人々の集団のことを指す。例えば、イタリアでは反原発は世間での多数派であり、反原発派は多数派を構成している。
 一方で命題空間での多数派とは、すべての可能な命題を「互いに無矛盾である」という同値関係で分類した商集合のうち、最も多くの命題を含む集合のことを指す。例えば、「神は六日間かけて世界を創造した。」という命題は、聖書に由来するいくつかの命題とは無矛盾であるが、宇宙論や進化論を構成する多くの命題とは矛盾しており、この命題を代表元とする商集合は現在知られている命題空間において最大集合ではない。言語/辞書/書物などから自然に命題空間を構成した場合、現代においては「科学」がその最大集合を与えるはずである。
 もちろん、この定義はかなり問題があって、そもそも矛盾を定義するのに論理学に依拠しており、その時点で初めから「科学」を最大集合として要請しているようにも見える。また、「科学」もなにか実体のある集合ではなくて、内部に多数の矛盾した命題を抱えている。ただ、その各命題に反証可能性を要請するならば、長期的には互いに無矛盾な命題の組み合わせに収束するはずである。したがって、かなり強引ではあるものの上記の考察は第一の問いへの一つの説明を与えているはずである。
 さて、世間での多数派が政治的権力を担うというのが、民主主義の原理であり、現代を生きる僕らはそれを了承している。ならば、命題空間における多数派も何らかの権力を保持しているべきではなかろうか。これは、命題空間における多数派が世間での多数派を構成することで自然に達成されているように見える。ただ直感的には、世間での多数派と命題空間における多数派は命題としてほぼ一致するように思えるが、厄介なことに現代社会では両者は必ずしも一致していない。そこで、第二の問いに戻るのだが、世間での多数派と命題空間における多数派が衝突したとき、どちらが優先されるべきなのだろうか。
 歴史的に見れば、現在まで命題空間における多数派が勝利を収めてきたように思う。地動説も複素解析も進化論もボルツマンの原子論も量子論生成文法も何もかも始めは世間での多数派ではなかった。命題空間の拡張に伴い、自然にそのマジョリティの位置を占めるようになり、ついには世間での多数派の命題として居座るようになるというのが、今日支持されている命題の基本的な軌跡であると思われる。
 つまり、人類が命題空間の拡張に励む限り、命題空間における多数派はいずれ世間での多数派になるというのが、第二の問いへの一つの解答として可能である。しかし20世紀以降、特に先進国で環境問題が主な政治的トピックになって以来、この多数派の転移の過程に異変が生じているように見える。
 よって、第一の問いへの上記の考察からは、どうも第二の問いへの現代的な解答は引き出せなさそうだ。しかし、21世紀においても多数派遷移の異変が継続するのであれば、第二の問いは今後一層重要性を保つようになるはずで、その考察を諦めてはならない。

>追記(20110615):
そもそも「互いに無矛盾である」というのは、同値関係を与えない。
「すべての人間はいずれ死ぬ。」という命題と「ソクラテスはいずれ死ぬ。」という命題とは無矛盾で、「ソクラテスはいずれ死ぬ。」という命題と「世の中には死なない人間も存在する。」という命題も無矛盾だけど、「すべての人間はいずれ死ぬ。」という命題と「世の中には死なない人間も存在する。」という命題とは矛盾している。
なので、同値関係というのは間違いで、「互いに無矛盾になるように出来るだけたくさんの命題をとってくる」みたいな言い方が正しい。上の例でいうと「世の中には死なない人間も存在する。」という命題は多くの命題と矛盾するから、出来るだけたくさんの命題を含む集合を作るときには除かれるべきである。

五月の読書日記

四月の読書日記の次の記事が果たして五月の読書日記で良いのかとは思うものの、最近ネタが枯渇気味なので、読書日記でつなぐ。

  • さようなら、ギャングたち

 個人的にスゴく大切な本。好きだとか面白いとかいうのではなくて、純粋に年に一度は読み返したいと思い、実際にそれ以上の頻度で読んでいる一冊。
 「明日に向かって撃て」を見て何となくまた読みたくなって読んだ。この本に関してはあまり書評じみたことを書きたくはないのだけれど、例えば僕が将来的にゼロ年代やその時代を生きた自分を総括する必要が出てきたとき、こういう書き方を目指すだろうなあとは思う。

これを買ったときに、twitter

・ずっと読もうと思っていたものの表紙がアレで手を出せずにいたドグマグをついに買った。死ぬまでに読みたい一万冊のうちの二冊。
・希望の本質は死ぬまでに読みたい本がまだ一万冊もあることではなくて、その大半がまだ書かれてすらいないことである、みたいな。

 と書こうと思ったんだけど、twitterで「死ぬ」とかいう言葉は出来る限り使うべきでないだろうなと思って辞めた。
 希望を抱くのに未来の期待値が現在のそれを上回っている必要はなくて、ただ現在の僕の周りの世界はそう長くは保つはずがなく、いずれ変わっていくだろうという推測が可能であれば十分。

 「精霊たちの家」に比べると、どちらも個人的にはピンと来ない感じ。どうもアメリカ人やイギリス人がラテンアメリカについて書いた文章は、ラテンアメリカの作家のそれと比べて浮ついた感じがする。老いぼれグリンゴの時代よりもさらに危険な今のメキシコに行こうとは思わないけれど、パタゴニアは一度行ってみたいと素直に感じた。
 上で「明日に向かって撃て」を観て「さようなら、ギャングたち」を再読したと書いたけど、「明日に向かって撃て」を観ようと思ったのは、「パタゴニア」の中に出てくるブッチとサンダンスのエピソード読んで、興味を持ったから。こういう鎖をつなぐような文化受容を今後も意識していきたい。

 学術書読書メーターなどに載せるべきか微妙で、一応真面目に読んでる本は載せないで、ネタ半分趣味半分で読んでいるものは乗っけるようにしようかと思っている。
 甘利先生の論文はどれも基本的に読んでてワクワクするというか、何が面白いのか明示的に書かれているので好きなのだけれど、本書でもそうした良さがよく現れていると思う。少なくとも、シャノンの「通信の数学的理論」よりも本書をまず先に読むことをすすめる。

  • 初秋

 ハードボイルドものっていうのは読んだことがなかったから新鮮だった。ぼっちについて最近よく考えるのだけれど、昔の人々は今の僕らより遥かにぼっちだったはずで、そこいらの一般人がfollowerを1000人抱えているような現状がおかしいし、コミュ力なんてものは幻想に過ぎない。ハードボイルドだってある種のぼっちなわけで、孤独それ自体は別にネガティブなものではない。
 この本を薦めてもらったとき、30代になって子どもを育てるようになったら、思い出すような類いの本だと言われたのだけれど、教育的見地からいうと本当にそうだろうかと、疑問に思う。小説だから仕方がないにしても、あまりに上手く行き過ぎてる。もちろん、ティッピングポイントのようなものはあるのだろうけれど、それを探すのはもっと困難なはずで、いくらハードボイルドでもそう簡単にはメンターは勤まらない。


5月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:2596ページ

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)<
読了日:05月26日 著者:高橋 源一郎
ドグラ・マグラ (下) (角川文庫)ドグラ・マグラ (下) (角川文庫)
読了日:05月25日 著者:夢野 久作
パタゴニア/老いぼれグリンゴ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-8)パタゴニア/老いぼれグリンゴ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-8)
読了日:05月21日 著者:ブルース・チャトウィン,カルロス・フエンテス
情報理論 (ちくま学芸文庫)情報理論 (ちくま学芸文庫)
読了日:05月19日 著者:甘利 俊一
ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)
読了日:05月18日 著者:夢野 久作
On the Road (Essential Penguin)On the Road (Essential Penguin)
読了日:05月06日 著者:Jack Kerouac
初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)
読了日:05月04日 著者:ロバート・B. パーカー

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