「7月4日に生まれて」

もし現世紀初頭の中東の諸戦争の目的が、アメリカの国威宣揚にあったとすれば、この目的は先に行われた多くの戦争や侵入などがなくても、立派に達成できたのである。もし目的が中東諸国の国威宣揚にあるとすれば、この目的は革命や独裁などなくても、やはり達することが出来たであろう。もし目的が思想の伝播であるならば、インターネットの方が兵卒などよりずっと立派にこの目的を果たしたに違いない。もし目的が文明の進歩であったならば、人間や国府の撲滅よりほかに、文明の普及にもっと適当な方法がある、こう仮定した方がはるかに自然らしく思われる。
戦争と平和」エピローグより、一部改変

 トムクルーズ出演作コンプリート作戦の一環で借りたのだけど、想像以上に重い映画だった。特にトム・クルーズウィレム・デフォーのケンカの場面は壮絶で、直視し難いレベルであった。

 全ての戦争映画のモチーフは「戦争と平和」で尽きているという仮説を検証するのはまた今度にして、戦争論の普遍性とベトナム移行の変移とについて書きたい。
 普遍性の方についてはおそらくあえて繰り返す必要はなく、資源や領土をめぐる利害の不一致から始まった戦争は自己目的化し、当事国は当初の争いの火種であった資源や領土を失うよりも大きな損失を被ってしまう。それは、ナポレオン戦争でもイラク戦争でも本質的には変わらない。
 ベトナム戦争以降の変移については、本映画の中でも良く描かれていて、軍は外の敵ばかりではなく内なる敵とも戦わなければならなくなったた。「戦争と平和」の中のロシア貴族は、熱心なフリーメーソンであったピエールでさえも、戦争それ自体に反対することはない。それに比べ、ベトナム戦争中のアメリカは反戦運動に吹き荒れ、戦争の英雄はその攻撃対象であった。
 反戦運動は人類の文明化の結実、ここ千年の間でいくつかの文明で同時多発的に進行してきた自由と平等の追求の現在形であり、それ自体を否定することは出来ない。特に世界中の人々が相互フォロワーとしてCirclesの一員として互いに個人的なつながりを持っている現代では、反戦運動は強力で、国家間の戦争などは不可能な状態にある。
 ただ、ひとつ考えざるを得ないのは、反戦運動参加者の無責任さ、環境保護活動家のそれと通呈する思考停止が蔓延しているように見える点である。実際に99%以上の確率で戦争は最適解ではないから、反戦活動家は思考停止に陥っていて良いし、小学生には毎年夏に「裸足のゲン」と「ほたるの墓」を見せて戦争へのトラウマを植え付けるべきだ。ただ、チェニジアやエジプトの例のように、時に武器を手にしなければならないときがあるのかもしれない。もっともそれは非常に慎重にやるべきだし、本当はもっと良い解決策があるはずなのだけれど。