世間での多数派と命題空間での多数派

僕が想定しているのは以下の二つの問いである。一つ目は、

  • 互いに無矛盾なファクトを寄せ集めただけの科学がなぜかくも強力なのか

ということ。これらは、無矛盾なだけであって、互いに強めあうことはない。もう一つは、

  • 科学的に間違った前提に基づく市民のマジョリティな意見は尊重されるべきか

という問い。ハイエクの意味において官僚は十分に馬鹿であり、衆愚的なポピュリズムは寡頭政に対して優位性をもつ。しかし、科学それ自体が対象となる場合は例外を構成するのではないか。

これに対し、世間での多数派と命題空間での多数派という二つの概念を用いて、解答を試みようと思う。まず世間での多数派とはいわゆるマジョリティであり、一人一票の原則による投票の結果、最も多くの人々に指示された命題、またはその命題を指示した人々の集団のことを指す。例えば、イタリアでは反原発は世間での多数派であり、反原発派は多数派を構成している。
 一方で命題空間での多数派とは、すべての可能な命題を「互いに無矛盾である」という同値関係で分類した商集合のうち、最も多くの命題を含む集合のことを指す。例えば、「神は六日間かけて世界を創造した。」という命題は、聖書に由来するいくつかの命題とは無矛盾であるが、宇宙論や進化論を構成する多くの命題とは矛盾しており、この命題を代表元とする商集合は現在知られている命題空間において最大集合ではない。言語/辞書/書物などから自然に命題空間を構成した場合、現代においては「科学」がその最大集合を与えるはずである。
 もちろん、この定義はかなり問題があって、そもそも矛盾を定義するのに論理学に依拠しており、その時点で初めから「科学」を最大集合として要請しているようにも見える。また、「科学」もなにか実体のある集合ではなくて、内部に多数の矛盾した命題を抱えている。ただ、その各命題に反証可能性を要請するならば、長期的には互いに無矛盾な命題の組み合わせに収束するはずである。したがって、かなり強引ではあるものの上記の考察は第一の問いへの一つの説明を与えているはずである。
 さて、世間での多数派が政治的権力を担うというのが、民主主義の原理であり、現代を生きる僕らはそれを了承している。ならば、命題空間における多数派も何らかの権力を保持しているべきではなかろうか。これは、命題空間における多数派が世間での多数派を構成することで自然に達成されているように見える。ただ直感的には、世間での多数派と命題空間における多数派は命題としてほぼ一致するように思えるが、厄介なことに現代社会では両者は必ずしも一致していない。そこで、第二の問いに戻るのだが、世間での多数派と命題空間における多数派が衝突したとき、どちらが優先されるべきなのだろうか。
 歴史的に見れば、現在まで命題空間における多数派が勝利を収めてきたように思う。地動説も複素解析も進化論もボルツマンの原子論も量子論生成文法も何もかも始めは世間での多数派ではなかった。命題空間の拡張に伴い、自然にそのマジョリティの位置を占めるようになり、ついには世間での多数派の命題として居座るようになるというのが、今日支持されている命題の基本的な軌跡であると思われる。
 つまり、人類が命題空間の拡張に励む限り、命題空間における多数派はいずれ世間での多数派になるというのが、第二の問いへの一つの解答として可能である。しかし20世紀以降、特に先進国で環境問題が主な政治的トピックになって以来、この多数派の転移の過程に異変が生じているように見える。
 よって、第一の問いへの上記の考察からは、どうも第二の問いへの現代的な解答は引き出せなさそうだ。しかし、21世紀においても多数派遷移の異変が継続するのであれば、第二の問いは今後一層重要性を保つようになるはずで、その考察を諦めてはならない。

>追記(20110615):
そもそも「互いに無矛盾である」というのは、同値関係を与えない。
「すべての人間はいずれ死ぬ。」という命題と「ソクラテスはいずれ死ぬ。」という命題とは無矛盾で、「ソクラテスはいずれ死ぬ。」という命題と「世の中には死なない人間も存在する。」という命題も無矛盾だけど、「すべての人間はいずれ死ぬ。」という命題と「世の中には死なない人間も存在する。」という命題とは矛盾している。
なので、同値関係というのは間違いで、「互いに無矛盾になるように出来るだけたくさんの命題をとってくる」みたいな言い方が正しい。上の例でいうと「世の中には死なない人間も存在する。」という命題は多くの命題と矛盾するから、出来るだけたくさんの命題を含む集合を作るときには除かれるべきである。