「空気」と「世間」

最近この本のことをよく思い出します。こんな「世間の空気」だからこそ、いま、読むべき本なのかもしれません。 / 「空気」と「世間」 - 琥珀色の戯言 http://htn.to/cYY8Yd
http://twitter.com/fujipon2/status/57720829382901760

に触発されて読んでみた。

本書では以下の五つの特徴を持つ共同体を「世間」と定義している。

1,贈与・互酬の関係 : お歳暮、モースの贈与論
2,長幼の序 : 年功序列、先輩/後輩
3,共通の時間意識 : 会社の飲み会、共同体の所与性
4,差別的で排他的 : いじめ、寄らしむべき
5,神秘性 : しきたり、迷信、伝統
"「空気」と「世間」"より(以下引用は本書より)

その上で、「世間」を構成する上の5つのルールのうち、いくつかだけが機能している状態を「空気」として、現代を「世間」が崩壊しつつある中で「空気」が蔓延っている時代として、現代日本の集団が抱える様々な問題を分析している。特に興味深かったのが、ネット世間に関する考察で、

僕が大変だなあと思うのは、ネット上の「世間」を実感するためには、「世間原理主義者」の人は、永遠に「攻撃の対象」を探し続けないといけないことです。そして、もうひとつ、自分にも分からない理由で、「伝統的な日本を破壊する側」に立たされるかもしれない、という不安を実感するだろうということです。
伝統的な「世間」は、キリスト教の聖書のような「書かれた聖典」を持ちません。『贖罪規定書』のような、罪の一覧表もありません。ただ、それぞれの頭の中に、「古き良き日本」があるだけです。ですから、いつ、「それは、古き良き日本に反する」という突っ込みが来るか分からないのです。

後述するようにネット世間を希求する人間は必ずしもネトウヨとは限らないが、想像の「世間」を求める限りは同じ不安にかられるはずであり、2chに代表される日本の独特なネット文化の根底にはあるいはこういう不安があるのかもしれない。

ただ、本書はいくつかの残念なステレオタイプに捕われている。
1,テレビ特にお笑い番組の影響力
メディア関係の人間はやたらテレビの影響力の大きさを主張するが、昨今ではそれは明らかに過大評価である。なぜなら純粋に若者はテレビを見ないからである。たしかに、29歳以下が世帯主の家庭におけるテレビの普及率は依然94.4%と高い水準にある。
http://www.garbagenews.net/archives/1541978.html
しかし、大学に入って以来スポーツやアニメ以外のテレビ番組について友達と喋ったことはないし、誰かが喋っているのを聞いたこともない。少なくとも現代日本の共同体を語る上で、お笑い番組は比喩以上の意味を持ち得ないと思う。

2,日本と西洋
「西洋 = キリスト教 = 神と個人の契約」という図式は20世紀までは確かに根強く機能していたが、現在では崩壊しつつある。オバマが"We = American"を強調するのは既存のアメリカ社会が崩壊しつつあるためであるし、ヨーロッパの右傾化はイスラム系移民が社会的に大きな位置を占めるようになったきたためである。同じ神と契約した「個人」によって形成される社会はもはや西洋にも存在せず、そのオルタナティブも依然見つかっていない。

3,いじめと逃避
「いじめられたら逃げればよいではないか」というセリフは良く聞く。でも、逃げるのにはスゴくエネルギーがいるし、クラス替えか卒業かでいじめが終焉することが分かっているのだから、やり過ごした方が楽なのかもしれない。逃げればよいことは分かっているし、逃げないでいることに合理性はないのだけれど、しかし無責任に「逃げろ」という人間には腹が立つ。

4,ネトウヨと世間原理主義
上述のようにネット世間の生成を試みる人間はなにもネトウヨだけではない。

おまいらがネトウヨだったころの黒歴史を語れ
http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51606111.html

というスレにあるように、ネトウヨは既にネタ化しつつある。一方で、日本のネット空間では未だに、「個人の自由な主張」は許されていない。正確には、「個人の自由な主張」が多くの人々に届くのはそれが世間原理主義者の攻撃にさらされた時のみである。その正体は不明だけれども、ネット上には自らの常識でもって誰かを攻撃しようという負のエネルギーがあふれていて、それのみがミーム間の相互作用を担っている。

5,社会の到来
筆者は社会の到来について悲観的であるが、僕の周りでは社会が形成されつつある。
例えば、この前ローソンにAmazonの受け取りに行ったとき、レジで会計していたらヘルメットを被った男が入ってきて店員に「この近くにガソリンスタンドってないですか?」と尋ねた。店員は地元の人間ではなかったらしく、奥から地図を取り出して調べ始めたので、僕は仕方なくiphoneで検索しようと思ったら、雑誌を立ち読みしていたリーマンが「そこの信号を左折すると、・・・」と、ガソリンスタンドの場所を説明し始めた。
それの何が社会なのかという話だけど、この場面では上述の5つのルールがすべて成り立っていない。
ヘルメットを被った男は礼を言うと何も買わずに出て行ったし、リーマンはおそらく年下と見られるヘルメット男に丁寧語で説明をしていた。また、僕を含めた4人の登場人物はそれ以前にも以後も顔を合わせたことはないし、排他的だったり神秘的だったりする要素は皆無だった。
こういう例は最近他にも度々あって、どうも日本に「社会」が存在しないとは信じられない。