信仰なきテロは可能か?

90年代において、テロはアルカーイダやオウム、独立運動連盟(ナショナリズムも一つの信仰である)などの大規模な宗教的組織によって計画されるものだった。しかし、ゼロ年代以降のテロは様相が異なり、例えばアメリカの高校/大学における銃乱射事件や日本の通り魔的連続殺傷事件にみられるように、個人の個人的動機による犯行が目立っている。先進諸国において前者が希求力を失いつつあるのは、いわゆる大きな物語の消失として理解できるだろうが、後者の顕在化は説明し難い。
そもそもテロ行為に当たっては、自らの命への執着と被害者への共感可能性との二つを捨て去る必要があり、これは容易なことではない。
前者は、自爆テロでなくとも死刑となることがほぼ確定しているがために必要とされる。宗教は死生観を提供し、その上オプションとして死後の世界を約束する場合もあるので、個々人に命への執着を断たせるシステムとして機能している。一方、こうした強い宗教的世界観を持たない場合でも、毎分地球上のどこかで自殺者が発生していることから分かるように、ある特定の状況に追い込まれれば、自らの命への執着を捨て去ることは必ずしも不可能なことではないようだ。
後者について、宗教的組織によるテロの場合、被害者は通常異教者であり共感可能性が薄い。特にカルトでは、人里離れた場所で集団生活をすることで、自分たち以外の人間への共感可能性が希薄化されるので、犯行への心理的障壁は低くなる。個人によるテロで特に理解できないのはこの点で、無差別な他者一般に対する共感可能性を捨て去ることは本能的に不可能なように見える。「学校の同級生」や「秋葉原のオタク」などの特定の集団に対して強い憎悪を抱くことは可能だが、その憎悪はその集団の構成員全員を「人間」と見なさないレベルの強度を保ち得ないだろう。これについての説明として考えられるのは、

他者への共感可能性の欠如はサイコパスの特徴の一つであり、無差別殺人事件の犯人でサイコパスだと診断された者も少なくない。しかし、圧倒的多数のサイコパスはテロ行為に及んでいないし、全ての犯人がサイコパスであるわけでもない。

  • 仮想現実への没落

昨今ではテクノロジーの発達/娯楽産業の発展により、没入可能な半仮想空間が豊富にある。しかし、仮想現実にはまり込んでも一般に唯我論に陥ることはなく、現実の他者への関心の喪失は表層的なレベルに留まるように思える。

  • 長期間の絶対的孤立

現代社会ではリアルな人間との接触強度を限りなくゼロにして暮らして行くことができる一方で、どこに行っても人があふれていて本質的に孤立することは難しい。その結果、現代人は時としてリアルな人間との接触が断たれているにも関わらず、多くの人々の間で生活して行かなければならない状況に追い込まれる。無差別殺人犯は、2-3人のグループで他の全ての人々から孤立している場合も含めればほぼ例外なくこうした準孤立状態にあり、この一見矛盾した立ち位置は想像以上に人を蝕むのだろう。
上の3つはいずれも説明として不十分であり、さらなる考察が求められる。