「ニーチェのプラトニズム逆転」

本書全体を論するのはあまりに事前知識が欠けてるので、以下の一段落のみを取り上げたい。

しかしながら、感性的なものが上位を占めるとは、どういうことなのか。それは、真なるもの、本来的存在者だ、ということである。逆転ということを、もっぱらこの意味が受け取るならば、上位と下位といういわば空席は、そのままに温存され、ただ前とは異なるものがその席を占める、というだけのことになる。けれども、この上位−下位の関係がプラトニズムの構造形態を規定しているのであるから、この逆転においてもプラトニズムはその本質において維持されるわけである。この意味での逆転は、ニヒリズムの克服として引き受けるべきことを、すなわちプラトニズムの根底からの克服を、果たさないのである。この克服が達成されるのは、上位のものがそもそも上位として撤去され、真なる望ましいものの先行的設定が停止され、(理想という意味での)真なる世界が廃絶される暁においてのみである。真なる世界が廃絶されると何が起こるのであろうか。そうなっても、仮象世界はやはり残っているであろうか。否、である。なぜなら、仮象世界が名実ともに仮象世界であるのは、あくまで真なる世界の対幅としてであるからである。真なる世界が崩れれば、仮象世界も崩れざるをえない。このときはじめて、プラトニズムは克服されーすなわち、哲学的思索がそこから脱却しうるような形で、逆転されたのである。そのとき、哲学的思索は一体、何によって立つことになるのか。
ニーチェI」/ハイデガー

第一部においてハイデガーは、「芸術としての力への意志」という観点から、ニーチェの「力への意志」の思想へアプローチする。これは、ニーチェの語義における「意志」とは自らを超えでるものとしての情動・陶酔であり、芸術、特に芸術家が芸術を創造するときに典型的に見入られるためである。優れた芸術は人間の認識の限界の近くに見いだされ、そこで陶酔が起こるということはニヒリズムへの一つの反証を与える。
一方プラトニズムにおいては、イデアが上位を占めており、その模倣である芸術は仮象世界の出来事であり下位に位置する。感性的なものの反対側に絶対的な何かを対置し、それを本質とすることはプラトニズム・キリスト教に代表される西洋史の特徴である。
さて、ニーチェはこの逆転を試みる。普通に考えれば、プラトニズムの逆転においては感性的なものが上位となり、イデアは下位を占める。これはニヒリズムであり、このときイデア的なものは従属的なものと見なされる。しかし、感性的なものが上位を占めているということ、上位と下位という関係性が依然存在することは否定神学的なプラトニズムであり、その逆転とは言えない。また、ニーチェニヒリズムへの反対運動を志向しているのだから、ニヒリズムニーチェプラトニズム逆転であるということはあり得ない。
すなわち、この逆転は「上位ー下位」という関係性からの脱却である。プラトニズムから逃れるためには、上位/真理を廃止しなければならないが、その上位のものが廃止されたときに、下位のものがそのまま存在するということはあり得ない。仮象世界は「上位-下位」という差異により生成されたものであって、それ自身として存立することはできない。
さて、「上位-下位」の関係性が廃止され純粋なニヒリズムでさえなくなった場所に何を見いだすか。これに対するニーチェの答えは、同じものの永遠回帰=力への意志なのであるが、この点を追求するのは荷が重い。