ゼロ年代のデモーデ

ワーキングプアもノンワーキングリッチもだいたい同じような格好をしていること、堺屋太一曰く「中国人もはかない」ような安いジーンズが売れていること、ゼンモールが東大生御用達のファッションセンターであること、などを想起するに、ゼロ年代以降のモードは基本的にデモーデであると思う。しかし、このデモーデはモードの呪縛に捕われた従来のデモーデとは本質的に異なるものなのではないか。

「モードの迷宮」によれば、モードとは「私が<私>を追いかけるナルシスティックな回路」によって作られる。
私は私にとって本質的に不可視な存在であり、私は他者の視線に現れる<私>を希求する他なく、この本質的な他者性から集団的なモードが表出する。しかし、<私>は私ではないから、モードは常に不安定であり絶えざる変化が要求される。

このロジックそれ自体は現代でもなお有効であるが、他者の視線との関わりがここ10年で決定的に変化してしまったのだと思う。
従来では、他者との交流は基本的に直接の対面によってなされるもので、他者の視線とは文字通り私の身体に注がれる他者の物理的な視線であった。この限りでは、他者と私の間に介在する衣服が決定的に重要であり、それが上述のモードを保っていたのだった。
一方現在では、コミュニケーション・テクノロジーの進歩により、他者との物理的交流は減り、ネットやケータイを通じた間接的な交流が主流となってきている。こうした交流において他者の視線はもはや私の身体に注がれることはなく、アーキテクチャを通じて直接私に返ってくる。
今まで、SNSアバターの装飾にリアルマネーを使う人がいたり、ネットリテラシーが高いはずの人がTwitterのアイコンに自分の写真を使ってたりするのが、どうも理解できなかったが、上のように考えると明らかじゃないだろうか。これらのアバターやアイコンは、「ナルシスティックな回路」の上にあるのであって、その意味ではジーンズやポロシャツよりも重要なのだ。

以前、

「欲しがらない若者」の深層
モノが主体でなくなったのだとしたら、そのAlternativeはなんなんだろう。メールとかtweetの類いだろうか?実際に、Web上のどこかにある僕のblogの記事とtweetの集合体は、僕の部屋の本や洋服の集合よりも強く差別化の作用を与えている。爆発的に増加した表現の自由が、モノから意味作用を奪い、データベースの次元へと追いやっているのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/noarke/20100201/1265031595

という記事を書いたが、そのとき僕が言いたかったのも同じことではないだろうか。

ゼロ年代以降のデモーデにおいてもはや衣服はモードを担うものでは無くなってきているのである。また、調べたことはないが、おそらくTwitterのアイコンにはモードが存在するはずである。この傾向は今後も加速し徐々に可視化されてくると思う。