カンニング問題について。 その2

まさか、はてブに取り上げられるとは思ってなかったので、いくつか補足。東氏の元々の議論とはかなり離れてしまっているけれど、いくつか面白いコメントを頂いたので。

1,カンニングすれば解けるような問題を大学の試験で出すのが間違っている理由について

ここで僕が言いたかったのは、「不正はいけない」などという言葉を繰り返しただけでは不正は無くならないわけで、理系だって本当はカンニングがしたいのだけれど、システム上それが出来ないからしょうがなく勉強しているというのも部分的には事実であるということ。
その上で、実際にどの程度カンニングが横行しているのかは分からないけれど、それがダメな均衡解であることは明らかなわけで、教える側の負担を無視すれば、カンニングしても解けないような問題を出すのが両者にとっての最適解だというのは事実だと思う。

2,なぜ僕を含め多くの学生が擁護の立場にまわったか。
はてブのコメントでも指摘されているように、確かに前回のフィードは結論ありきの詭弁であり、togetter上での議論に対する嫌悪感を書き起こしたものであって、その意味ではtogetter上にあった多くの東氏への批難のtweetと同じものである。
それでこの嫌悪感の由来について、一つはfujiponさんが指摘していたように、

東浩紀さんとカンニングtwitterの「不当な量刑」」

「明らかに悪いと決まっているものに、罵声を浴びせて快感を得る」のは楽しいかもしれないけれども、この件に対して、何の利害関係も責任もないあなたのリツイートで、ひとりの若者の立場が、どんどん悪くなっていくのです。
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20100904#p1(琥珀色の戯言)

三者からの無責任な批難が集中したこと。「いまだかつて一度もカンニングをしたことがない者だけが、この学生を批難する権利を有する」とまでは言わないけれど、明らかに過剰だった。

もうひとつは、ある特定の実在する学生vsある特定の実在する教授という図式が実現してしまったこと。低俗な倫理ではあるのだけれども、直感的には「自分と同じ=善、自分と違う=悪」であって、「twitterの公共性を理解してないのは東浩紀のほうじゃないの」と思ってしまうわけ。特にtwitterは構造上直感に流されやすいメディアであるので、別に彼らがカンニングの正当性を本気で信じているわけではなく、一連のtweetを見て現代の学生のカンニングに対する意識について嘆くのは間違い。