「成長パラノイア」の幻想

いつの頃から資本主義に対する批判として「成長パラノイア」という言葉が使われるようになったのかはよく分からないが、その普及は現象として考慮に値する。

もし(抽象的な指標としての)成長が指数関数的に起こっていたとすると、その時定数Tは一定であり、以下の2パターンが考えられる。
1) T > 人々の寿命のとき:この場合人々は生まれた時から存在する漸次的な技術変化を除けば、社会の大幅な変化を感じることなく一生を終える。これは明らかに現代の社会情勢に反している。
2) T < 人々の寿命のとき:このとき全ての人々は未だかつてない技術的/社会的革新にさらされるはずである。しかし、近世までの歴史はこれに当てはまらない。

したがって、長期的に見たときに成長はよりも早いペースで起きている。そのことを考えるに、

Matt Ridley: When ideas have sex
TED(from 404 blog not found)
http://www.ted.com/talks/matt_ridley_when_ideas_have_sex.html

は示唆的である。
指数関数的な成長モデルでは、df(t) = f(t)dtを仮定していた。
しかし、アイデアfが互いに組み合わさることにより成長が起こるとすると、df(t) = f(t)*f(t)dtとなる。
このとき、
 f(t) = \exp(\int_{-\infty}^{t}fdt')
となり、超指数的な速度で増加する。また、時定数をΔtとすると、f(t+Δt) = e*f(t)より、
 \int_{t}^{t+\Delta t}fdt' = 1
Δtが微少量だと仮定すると、Δt = 1/f となる。
したがって、変化の時定数は時間が経つにつれて短くなる。
このことは、中世から現代にかけての人々の世界に対する感覚と調和的であるし、「成長パラノイア」という言葉が20世紀以後に普及した概念であることは、20世紀のどこかで「Δt > 人々の寿命」から「Δt < 人々の寿命」へと変化したというので説明できる。
こう考えると、マルサス人口論が杞憂に終わったことも理解できるし、カーツワイルの理論があながちトンデモでもないことも示唆される。