「欲しがらない若者」の深層

いつもの若者批判と思いきや、やや面白い切り口。

「若者がかわった」、「以前の若年層と違う」。

80年代の極めて高度な日本型消費社会に生まれた若者の周囲には、いつもモノがあふれ、「他者との違いを示す」記号とイメージが乱舞していた。その飽和のなかで育った世代は差異表示のための消費をしなくなり、従来の消費社会を超えていく存在となっている

カナ速
http://kanasoku.blog82.fc2.com/blog-entry-12862.html

確かに、差異という言葉が既に80年代的なんだけど、ボードリヤール的なモノの時代が終焉を迎えたわけではないように思える。現に、アメリカでは50年前からモノがあふれていたけど、今も飽きずに消費を続けている。

現代の若者は、巨大なデータベース上でカスタマイズされたモノを淡々と消費するだけで、そこに差別化のプロセスは働いていないのだろうか。でも、コミュニティの内部で生活している以上、なんらかの形で自らをアイデンティファイする必要があるわけで、それは本質的に差別化のプロセスな気がする。

モノが主体でなくなったのだとしたら、そのAlternativeはなんなんだろう。メールとかtweetの類いだろうか?
実際に、Web上のどこかにある僕のblogの記事とtweetの集合体は、僕の部屋の本や洋服の集合よりも強く差別化の作用を与えている。

爆発的に増加した表現の自由が、モノから意味作用を奪い、データベースの次元へと追いやっているのではないか。

少なくとも、若者と消費の問題は純粋に金の有無の問題ではなく、何か深層があることは確かだろう。