Retreat! Retreat!

前ブログよりサルベージ。あるいは、今年のサマソニの初日のソニックステージが神な理由。
終わりゆくゼロ年代を眺める上で、ポストロックという潮流の再解釈は不可避であり、本ブログにおける重要な論点となろう。


ポストロックとは何かという問いは、いつものようにウィキペディアを見たところで解決するようなものではなく、様々な角度から問い続けることによってその輪郭を浮かび上がらせることができるのみであろう。
そもそも、芸術に対する問いは、常に<語り得ないもの>を内包している。この<語り得ないもの>は、議論の果てにいつも姿を現す「何か」であり、近代絵画における「オーラ」であり、断裂線から湧き出てくる「力」であり、脳科学における「クオリア」もそれに近いものである。であるから、芸術に対する「語り」は常に不完全なものであり、「騙り」としての側面を持たざるを得ない。解釈は必然的に嘘を含む。
この立場に立って、ポストロックに対する一つの解釈を述べたいと思う。
90年代以降の音楽(主にポピュラー音楽)に対し、二つの断裂線を引くことが可能だと考える。(先ほど論じ忘れたが、解釈とは対象から論理にそって切り取ることである。)ひとつは、Aphex Twin(以下AFX)の「Richard D. James Album」(1997年)であり、もうひとつは、65daysofstatic(以下65dos)の「The Fall of Math」(2004年)である。この切れ目は全く恣意的に設定したものであり、いかなる論理を振り回したところで結局のところ身体性に帰着されるものである。(萌えるか、泣けるか、共感できるかどうかという次元)一応根拠を述べておくと、90年代以降作曲に本格的にコンピュータが用いられるようになり、作曲家の頭の中にすらない音楽が制作できるようになったが、多くの作曲家は頭の中の音楽を具現化する便利な装置としてしか、コンピュータを用いてなかった。そんな中でAFXのこのアルバムは、それまで誰も聞いたことのないリズム、楽曲構成を実現したという意味で革命的である。一方、65dosの革命は、そうして人間性から飛躍していった音楽を再び人間性の中に回収したことにある。これは、古代ギリシャから西洋哲学を経てニーチェに至る流れ、古代芸術からルネッサンスを経てバロックに至る流れ、民主主義から社会主義を経てマルチチュードに至る流れ、あるいはAIBOからアンドロイドを経てアトムに至る流れに等しい。「The Fall of Math」というタイトルからもそうした転換への意図が感じられよう。
下の動画(「The Fall of Math」の”Retreat! Retreat”)のもつインパクトはこのように説明できないだろうか。